五章昭和20年、終戦の年、日立は、三つの襲撃を受けました。6月10日、一トン爆弾の被害を浴びたのです。午前八時五一分頃「関東東部を旋回中のB29役100機の最後尾が東京を通過し、鹿島灘および九十九里浜より遁走中」という報道がされました。でも、それは遁走中ではありませんでした。 やがて九時少し前のは、大甕海岸から海岸沿いに北上しB29二九機が、日立上空一万メートルに現れ、海岸工場めがけて多数の一トン爆弾を投下したのです。この攻撃は、二,三分でした。その十分後、第二波B29二十九機が来襲、更に、その六分後には第三B29三十三機、そしてその十八分後の九時半に第四波B29三十四機が来襲、約三十分余の間に五百八発の一トン爆弾を投下し飛び去って行きました。 一トン爆弾は、工場を襲撃し、工場の90パーセントが破壊され、被害者数は、886人の死者、210人の重傷者、506人の軽傷者、29人の行方不明者を出したのです。 家屋被害は、破壊家屋は、全壊1486世帯、半壊866世帯に及び、この時は、まだ、相賀館の建家は、半焼で免れました。 その後、7月17日鑑砲射撃を受ける。 7月15日、アメリカ機動部隊は釜石を鑑砲射撃し、翌16日は室蘭を砲撃しました。そして、7月17日午後11時14分には、日立地区に対する鑑砲射撃が開始されたのです。この作戦に参加したの隻は、アメリカ第三艦隊第34、8,2の任務部隊で、戦艦五隻(ウィルコンシン、ミズーリ、アイオワ、ノースカロライナ、アラパマ)、軽巡洋艦二隻、駆逐鑑九隻計一六隻でした。砲撃は二十数分で終わり、11時58分には勝田地区への砲撃が開始され、12時11分には、全砲撃が完了したのです。日立地区でこの砲撃のの目標となったのは、やはり、工場でした。四カ所の工場に870発の16インチ砲弾が撃ち込まれたのです。 また、同時にキングジョージ五世など三隻の戦艦からなるイギリス艦隊は、アメリカ機動部隊の北方六マイルの地点で作戦を開始していました。目標は、日製高萩工場でした。 7月17日は、朝から小雨が降っていた。この中を鑑載機グラマン(F6F)機の一隊が浜の宮から低空で侵入、機銃掃射をしながら日立中学、山手工場、大雄院を経て本山方面へ飛び去り、朝から不穏な一日でした。 この砲撃で、被害に有ったのは、破壊家屋の被害だけで済んだが、全壊が、637世帯、半壊が、1059世帯にも及びました。また、これによる被害者数は、死者、317名 重傷者、123名 軽傷者、253名 行方不明者、9名を出したのです。 7月19日の空襲(焼夷弾) マリアナ基地を発進した第七三飛行団のB29一二七機は、硫黄島を経て九十九里浜から関東に侵入、霞ヶ浦を北上して目標の日立市街地上空に達しました。日立上空に進入した先導の一二機は、午後11時20分から36分にかけて爆弾を投下、続いて本隊の一一五機が、11時25分から翌日の0時53分まで1時間28分に亘って各種の焼夷弾約13900発を投下したのです。 艦砲射撃があった、その三日後、今度は、日立で一番被害の大きかった焼夷弾が落とされたのです。6月に一トン爆弾、3日前に艦砲射撃とあったが、どちらの時も、民家の焼失は免れました。でも、焼夷弾攻撃によって日立市街はほとんど全滅状態となり、住民の多くは、海岸に避難しました。焼け残った住宅は数えるほどでした。焼失家屋は、10478世帯が、全焼し、 214世帯が、半焼するという被害を受けたのです。被害者は、少なかったが、それでも死者63名、重傷者17名、軽傷者84名居ました。その三つの攻撃で出した死者は、1266名でした。 この焼夷弾が落とされたときには、日立は、焼け野原と化し、みんな生きる術を見失ったのです。 その約一ヶ月後の昭和20年8月13日「二日後に重大な放送がある」との情報が流れました。家庭にラジオなどあったでしょうが、その頃、電線の復旧が遅れていて、毎日、停電の日々を送っていました。 その頃、東暁館が焼け残っていて、そこの別館に常陽銀行が仮営業を開始していました。その常陽銀行には、一般家庭とは異なり、電源が入っていたのでラジオが聞くことができたので、15日には、工場の従業員から勤労動員達にも「あそこ(東暁館)はラジオがあるから、正午の放送を聞くように」といわれ、東暁館別館内の常陽銀行仮営業所に大勢の人たちが集まりました。 昭和20年15日正午、ラジオの騒音の中から終戦を告げる天皇陛下の声が流れました。無条件降服による戦争終結。そこに集まった100人にも近い群集の間から呻き声と嘆き声が響きわたったのです。 ※今の天皇制があるのは、戦争で敗戦してしまった日本軍は、天皇制を反対したのですが、この戦争に賛同した、アメリカから日本を任されていた「マッカーサー」(日本全権大使)が、天皇は、日本の象徴なので無くしてはいけないといい、天皇制を残しました。 戦争エピソード・いき子 この空襲の時、イキ子たちは、「源一郎」に任された映画館を守るため日立にいました。 二つの防空壕が合ってそのひとつに逃げ込もうとしたなら「コッチへ!」と言われ入った防空壕は助かり、いき子が入ろうとした防空壕は、爆弾を落とされ危なく命を落す処でした。「コッチへ!」と言葉をかけてくれた人に命を助けられたのです。その一言を信じ他の防空壕に逃げこんだのが紅一点だったのです。 祖父の商っていた映画館(相賀館)も、一トン爆弾、艦砲射撃には何とか免れる事が出来ましたが、最後の焼夷弾で、日立は、焼け野原と化し、「イキ子」の任せられていた映画館も相賀館も焼けてしまったのです。唯一焼け残ったのは、「京樂館」だけでした。ですから、「享楽館」は今、大正15年に建てられ戦争を逃れた芝居小屋と言う事で国の文化財になっている。 敗戦を迎え、昭和20年、並木路子の「りんごの唄」が流れていた頃、昭和19年から栃木に疎開していた正妻と子供たちが、日立に帰る年、「かん」の母親「みの」は、実の娘と5人の孫達の元気な姿を見、疎開してきた孫と娘達を無事、戦争時を乗り越えさせる事が出来たのとその戦争が終わりを告げた事に安心したかのように永眠しました。 その後、疎開していた正妻と子供たちが日立に帰ってきましたが、また相も変わらず「源一郎」は、正妻と子供達とは、一緒に住まず、お妾さんと一緒に住むと言うまた元通りの生活が始まりました。 そんな中、長谷川町子のサザエさんが大流行し、NHKで、のど自慢素人音楽会(演芸会)が放送開始され始め、戦争を終え一年、世の中が変わろうとした年の昭和21年、「イキ子」に長男が生まれ、「源一郎」に始めての孫が出来たのです。祖父にも明るい兆しが差しかかり始めました。 この年、経団連・商工会議所が設立され、ソニーや本田技術研究所(現・本田技研)など会社も設立され、本田技術研究所(現・本田技研)で初めてポンポンオートバイが作られた年でもあり、日立に昭和天皇が訪れた年でもました。 でも、大坂では、発疹チフスが発生し、天然痘・コレラ等の伝染病が流行し死者6880人を出した年でもあったのです。 >>> |